TEXT (English)
April, 2018 ---- 「家縛りプロジェクトカタログ2号」より
家縛りプロジェクト
家縛りプロジェクトは、その家の住人や友人、集まってくれた人たちと一緒に、ケーキの箱をリボンで結ぶように、
家の建物全体に縄を十字にかけて蝶々結びをおこなうアートプロジェクトです。こう縛るという決まりはなく、
参加者の智恵と力を合わせて工夫しながら縛ります。最後の締めになる蝶々結びは家の人たちに担当してもらい、
これがメインイベントとなり、完成したら皆が集まって縛られた家の前で記念撮影をおこないます。
家縛りについて
「家縛り」は、家を家族や友人たちといっしょに縄で十字に縛り、その記憶や痕跡を残す新しい縄文芸術です。
縛った家の縄の形や雰囲気は、そこに関わった人たちの価値観や存在、美学によって作られていると私は考えています。
普段、景色に馴染んで曖昧になっている「家」のイメージは縛られるときの流れのなかで少しずつ世界に姿を現します。
また家を縛る縄の結び目は、あたかも家からの縛りとそこから解放されるアンビバレントな気持ちを形にした彫刻のように
私には感じられます。
このアートプロジェクトを、私は新しい縄文式芸術として制作し、さまざまな人々に見たり体験してもらうことによって、
記憶や心のなかにそのときの縄の思い出=縄文を残してもらいたいと思っています。ただ実際に家を縛っていると、
ちょっとした祭りのようだなと思ったりもしています。
家庭の美学
家には、その家族に受け継がれた生活の仕方、伝統、美観などがあり、私はそれらを「家庭の美学」と名付けています。
家縛りプロジェクトはその家の住人や友人、協力者と一緒に智恵と力を合わせて行います。基本は縄で家を十字に縛り、
結びをつくるというものです。
そのときによって参加する人数もいろいろで、家族関係者だけのときもあれば、大勢で縛るときもあります。
こちらからこう縛ってくださいという決まりはなく、やり方を簡単に説明するだけで、参加者と一緒に工夫しながら縛ります。
そういうわけで、家を縛り結ばれた縄には、家族の人や参加者の感性、価値観、美観が縄の形や雰囲気に現れますので
完成した家縛りには「家庭の美学」が宿っています。
縄を使うことについて
縄文土器、土偶といった日本古来の芸術には縄を使った表現が取り入れられており、縄は現在も日本各地にある神社の
しめ縄や祭りに使われています。ここまで縄とつきあい、縄を使った文化や芸術を作り続けているのは世界でもまれなこ
とではないかと思います。その特殊性について自覚できないほど、縄は日本人の精神や文化の古層に遺伝子のように入り
込んでいます。
私は、この「縄」がもつメディウムとしての可能性が、私が表現したいものを展開し、多くの人とつながりを作り、
予期せぬ面白いものを作ってくれるのではないかと考えています。
October 21, 2014 ----
「家縛り」について
家は建築物(大地の上のある場所に立っているもの)であると同時に、過去や現在、拡大すれば未来も含めて、家族やそこに関わった人々の物語の記録です。それは家に漂う雰囲気としかいえないものかもしれないですが、心に感じることのできるものです。
縄は日本において、主に縄文土器は約1万6000年前から、そして現在も相撲の横綱(太い縄)やいたるところで目に触れるしめ縄という形の媒体(メディウム)として存在しています。このことから縄は、日本に住む人にとってもっとも古くからある身近な素材、道具であり、郷土文化的な背景を持つ近しい触覚的でリアルなものです。
また縄を人類学的な尺度に広げたとすると、それはおそらく人類が生まれたころから存在し、宇宙はひもで出来ているという最新の超ひも理論の確認につながってゆくのだろうと思われます。
このような媒体(メディウム)=縄を使って家をみんなで十字に縛ります。
家を縄で十字に縛ることにより、その家を縛る縄*1は媒体(メディウム)として家と私たちの中間に展開します。このことから縄を家と私たちのあいだの暗号解読器、もしくは芸術言語への翻訳機、もしくは絵画的展開可能なマトリクスとして、家から芸術作品へと展開します。
縛り方の基本形は、新聞の束などを十字に四分割する*2方法に由来します。また縛った縄は一定の時間で解かれます。それは縄の記憶、痕跡を残した<タグ付きの>家を解き放つことです。それは縄文土器との連続性のある縄文式の家とすることと、そこから派生した縄の痕跡芸術としての、縛った家の写真や一連の記録を現代的な縄文式美術作品として制作、保存するためです。
このようなことから、多くの人と縄をメディウムとして、美術の文脈の中で作品を作ることが可能だと考え家を十字に縛っています。
*1=縄 :紐、弦、緒、ライン、螺旋、その他、縄紐的なものを含む
*2=四分割する:私は四つのものは、かつて四つをものを見て目眩がしたことから、四つのものは悟性の結合を解体
、統覚不可能にし、統一する能力を無力化すると考えています
November 15, 2014 ----
四について、カント
悟性はアプリオリに結合する能力であり、また直感における多様な表象を統覚によって統一する能力にほかならない−とカントはいいましたが、私は四つのものは、悟性のアプリオリな結合を解体すると考えています。
January 22, 2014 ----
家縛りと結び目
縄文土器には縄の跡がついており、そこにはさまざまなバリエーションと、結び目の跡がある。歴史的な検証はまだ十分でないが、実は日本の縄と結びの表現はキープとしてインカに伝わったという説がある。それはかつて火山活動により人が住めなくなった日本から逃げ出した人がアメリカ大陸へゆき縄を文字の代わりにつかったということである。
December 15, 2013 ----
家縛りとリトマス試験紙
かつてヴィトゲンシュタインは家族的類似という言葉を使ったが、レヴィストロースは親族の家族構成で家族のシステム数4を発見した。ラカンは家族複合を書いた。
家を四分割するように十字に縛る家縛りの目的の一つは、家のイメージや存在を縄紐(メディウム)によってつかまえようとする試みだ。またただつかむだけではなく、日本において縄紐は空間やエリアを分けるパーティションであり、私の場合は四つの部分に分ける間ということになる。
家縛りプロジェクトとはリトマス試験紙やDNA検査、温度計のように、家や家族のイメージ、存在を目に見えるように、また感じられるものにするものである。例えば、家の絵のほうがよりその家が分かったり見えたりすることがあるが、実際にその家に住んでいる人に自分の家を描いてもらうと、抽象的で分からない、知らないものが描かれ、もっとよくその家が見えるようになるかもしれない(もっとも、なんだか分からなくなってしまう可能性もある)。私が家縛りを行う際に、家人や協力者に手伝ってもらうとき常々面白いと感じるのは、見えないものが見えるときだ。
October 2011 ----
なぜ家を縛るのか?
家を縛ることは、家からの縛りを封印することを意味しています。家を縛ることにより「家から自由になる」と、「家から縛られなくて寂しくなる」という相反する感情が同時に起こります。私はこのことが面白いと思い、家を縛るプロジェクトをスタートしました。
縄を解いた後、家を縛った人々の記憶にも十字の縄の跡が残り、その記憶は家を縛ったときと同じように相反する矛盾をはらんだ感情を湧き起こさせると考えます。
ここで使う縄は、縄文の伝統や神社につながる日本の縄文化と連続するものです。また、家を十字に縛って四分割する縛り方は、古新聞を十字に縛ってあるのを見て思いついた手法です。
June 2010 ----
鎌倉で家を十字に縛るプロジェクトについて
墨屋宏明氏(ルートカルチャー)の質問に松本春崇が答えたemailでのやりとりの記録です。
松本: 私は、作品のことを考えるときに関数の座標軸をイメージすることがあります。
見たいものがあるとき、視覚の中に座標軸をすべらせ、見たいものの中心に座標軸の中心(0、ゼロ)を重ね全体をイメージします。そうすると視覚は上下左右に四分割され、四つに分割されたそれぞれの象限は次元が異なるので、知覚に影響を与えることになります。
なぜなら、たとえば重力のない宇宙では上下左右はありませんが、重力があるところではモノが下に落ちるので「上下」の感覚が生まれ、上下のあるところであるモノ(見たいもの)を見るとそのモノを中心に「左右」という感覚が出てきます。
松本: 十字に縛るというのは上下左右、(もしくは遠近左右、空間的には四分割)をつけるための方法です。ゆるく縛るのは造形的な、あらゆる彫刻的な意味で「家と縄」がもっている素材感を出したいからです。ただ、家によってはきつく縛ったほうがいいものもあると思います。
松本: 正確に言うと、神社のシメナワにも縦の線があります。シメナワの何カ所かに「紙垂(カミシ)」というひも状の紙を垂らします。 これには聖域を表す印として垂らすという意味が込められているそうですが、家を縛る作品では、左右を作ること、それが縦の縄の役目だと思っています。
先ほどの質問の答えと同じように、縄の縦横が空間に0(ゼロ)の位地を与えるということです。それが視覚に隠されたダブルバインドを強く引き起こしてくれると思っています。
松本: 家を作品にするときにその家の風景が見慣れたものから開放され、なにかが現れるような神秘的な姿を現したらすばらしいだろうと思います。
松本: 基本的に記録の作品として写真、その他を展示、インスタレーションしたいと思います。世界中の人の住まいそれぞれが、神殿や神社のような神秘的な場として現れる姿を見てもらいたいと思っています。
松本: 古代ギリシャでも古代中国でもアメリカ先住民の文化でも、その他いろいろな古代文明で「四つ」や東西南北、十字形などが文化の中心的なシステムの一部となってきました。私は現代においてもこのような「四」を基本にしたシステムは機能し、その中に隠されたものは芸術作品からも蘇ることができると考えます。
墨屋: なぜ家を十字に縛り、四つの象限に区切るのですか?
つまり、「上下」には重力との関係がありますが、「左右」は重力と直接の関係がありません。そのため、上下左右の次元は実は同じではないのです。このことをリアルに感じることができるのは、立てた鏡に映った鏡像です。そこに映し出された鏡像は、普段当たり前のように見ていますが、よく考えながら見ると、そこには上下はそのままで左右しか逆転しない不思議な現象が起きています。(これは鏡も人も地球の中心に向かって引っ張られているからですが、)つまり、一見同じように見え、感じる縦と横は重力の影響を受けるものと受けないものという異なる次元からなるもので、上下左右の象限には次元の非同一性があります。
人は何かを見るとき、それが正しいと思って見ていますが、その正しさは実は学習によって無理矢理整合性を持たせ合わせた正しさなのです。
この非同一性は普段の生活ではほとんど自覚的ではないと思われますので、上下左右に十字に縛ることにより忘れ去られた次元の異なりが強調され、家は普段とは違う光景を現します。そこに、言葉や概念から解放された本来の姿が立ち現れると考えます。
*象限:円の4分の1。平面上で直行する座標軸が平面を四つに分けたそれぞれの部分。
墨屋: コンセプト上で縛り方に意味はあるのですか。ゆるく縛っているのには理由があるのですか?
墨屋: 家を縛ることは、神社における「シメナワ」と通じるところがあると以前お聞きしました。シメナワは、「内(神さまの世界)」と「外(この世)」を分ける境界線の働きをしているということでしたが、シメナワは横の線しかありません。家を縛るときに縦を加えて十字にすることでなにか思いはあるのですか?
墨屋: 十字縛りされた完成後の家を見た人に何を感じてほしいですか?
インスタレーションが終わったあとは、十字に縛った縄の痕跡が記憶として心に残ってほしいと思います。
墨屋: 家を縛った写真はどのように展示され、その展覧会では何を伝えたいと思っていますか?
墨屋: 松本さんの他の作品との関係性や、いつも作品に込めるコンセプトとはどのようなことですか?
今回は、人の住まいに隠された光景を見たいと思い、それを作品にする予定ですが、作品に込めるコンセプトとしていつも以下のことをよく考えます。かつてボイスはコヨーテや、ダライラマとコミュニケーションしようとしました。また、ボルタンスキーは個人やいろいろな記憶から普遍的な世界を出現させました。ウォーホールは眠った男を撮り続け、ポロックはアメリカ先住民の儀式を絵画作品に取り込もうとしました。私は「四つ」を使った制作から、彼らのように異なった世界や見えないものとの出会いの場を作り出したいと思っています。
墨屋宏明 : NPOルートカルチャー、HatchART、BOAT PEOPLE Associationのコアメンバーとして現代美術と日常生活や社会を繋げるべく活動を実践。鎌倉在住。
ルートカルチャー http://rootculture.jp/BOAT PEOPLE Association http://boatpeopleassociation.org/
April 2010 ----
なぜ私は四つを使うのか
私は四つを元に作品を作っています。美大生の頃、主に生成のプロセスをモチーフに彫刻作品を作っていましたが、
ビーナスとアフロディーテという見かけや制作プロセスはそっくりだが名前が違う彫刻を作ったとき、
ふとそれらを見て、この二つが並んだ姿を鏡に映したら面白いのではないだろうか、
と思ったことが四つを元に作品を作り始めるきっかけでした。
並んでいるビーナスとアフロディーテを鏡に映すと、四つのものが並んで見えます。
まずここで私が気になったのは、ビーナスとアフロディーテの間(あいだ)にある鏡に映っている「間(ま)」を、
どう解釈したらよいかよくわからなかったことです。
それは目に見えないので、たとえば透明人間を鏡に映すような話に似ています。
よく考えてみると鏡の中は鏡像の世界です。鏡像の世界には「間」や透明人間というものは存在できるのだろうか。
反転した間というものはあるのだろうか。透明人間は反転しているのか。ふつふつとこのような疑問がわいてきて、
そういった疑問が起こること自体が何か生まれてくるようで面白いと思いました。
また仮に、並んだビーナスとアフロディーテを鏡に映したとき、実像のビーナスは、
名前が同じ鏡に映っている左右が反転した虚像のビーナスと、ビーナスそっくりだが名前が違う実像のアフロディーテとどちらのほうが似ているのか、
という問いが思い浮かび自問してみました。
結果私自身の答えは、どちらが似ているとは決められない困った状況になるということでした。
なぜならどちらを選んでもおさまりが悪く、どちらとも言えない、どちらも似ているし似ていないからです。
そう考えたときに、ここで起こっている状況は、実はその場を統一する次元が絶えず自己崩壊している状態なのではないかと考えました。
その答えが入れ替わる運動がとても面白いと思いました。
さらに、鏡を使うのではなく、たとえば人間の夫婦と金魚の夫婦という雌雄、二種類、計四つのものが現れたとき、
その中で人間の夫に似ているのは人間の妻か、それとも金魚の雄かという疑問が現れました。
生物の種をとると考えれば人間の妻になるが、雌雄の性別をとって考えると金魚の雄になってしまう。
ここでも、求めるものに対してどこまでいっても答えが入れ替わる、答えが出せないもどかしい状況が繰り返され、
知覚は分裂し崩壊していきます。
つまり、もともと視覚や知覚の中には隠された二重拘束(ダブルバインド)の構造があるために、
今述べたような四つのものが現れたとき、(あるいはなんとなく似ているものが2つ並んで見えるとき)、
それらを統一する次元の崩壊が起こるのではないか。言葉をかえれば、四つを使った作品は、
視覚や知覚の中に隠された二重拘束(ダブルバインド)をあらわにし、
統一次元を崩壊させるシステムとなるのではないか――。
知覚や固まった感性や価値観の崩壊を喜び、感動を持って感じること、
これは私が芸術の役割のひとつだと思っていることなのですが、四つを使った作品は、
そのような芸術的な体験を引き起こさせる表現を可能にするのではないかと考えました。
またこのシステムは、二つ並んだものとその鏡像(もしくは鏡像の役目をする二つのもの)
で構成した単純なつくりなので、見たいと思いそれを見ている間は、
連続して知覚の崩壊が起こり続ける永久機関となります。
また単純であるがゆえに、いろいろな芸術的表現へ応用できる可能性があると考えます。
その後いろいろと制作してゆくうちに、初めに意識をしていた「間(ま)」 自体を作品化できないかと考えるようになってきました。 つまり、四つのものを配置する形で制作する方法から、四つのものと共にある「間(ま)」 そのものを製作し作品化する方法です。 その過程で後に「田んぼ座」と名づける作品の展開が現れます。これはいろいろな素材で、 もともとそこにあった無名の場所や空間を囲い、四つに区切られた場・空間を作る作品です。 四つの空間や場所に現れた四つの「間」を、四つのものとして扱おうという制作方法です。
その後この作品から、「間(ま、囲むもの)」を鏡像化して作る作品へと展開しました。
立体作品としてはまだ制作を行っていませんが、平面的な作品では「間(ま)」を鏡像化したものと、
中央の十字のグリッドの部分のみを鏡像化した作品があり、それらの作品を「鏡格」と名づけ、絵画と写真、
ビデオ作品などに展開しています。
続く、、、。
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